お話あれこれ

 ここではいろいろなお話を載せていきたいと思っています。
ちなみに、『四方山話(よもやまばなし)』の『四方山』とは『四方八方』が変化したものらしいです。


ゴンという名の犬(2004年3月12日up)

 私は愛犬家ではない。犬のことはキライではないが私自身は猫派である。
そんな私の友達に愛犬家がいる。飼っている犬種はゴールデン・レトリバー。こう書くとまるで少し前の流行に便乗して飼ってしまったようでなんか不愉快にさえなってしまうのだけど、決してそうではない。流行するもっと前から友達夫婦はこの犬種が大好きで探していた。ブリーダーさんを見つけて飼うことが決まったあと、友達は同居していただんなさんのご両親に大きな犬だけど家の中で飼うことを承知させた。前に家の外で犬を飼っていて体調の異変に気づくのが遅れて死なせてしまったと彼女はずっと自分を責めていた。ペットロス、、というのだろうか。彼女は前の愛犬が死んでしまったとき、半狂乱になった。そんな彼女を知っているからこそ、だんなさんのご両親も承知せざるを得なかった。今でこそ日本でも家の中で大きな犬を飼う家も増えているが、当時は珍しいことだったのだ。

 友達の家にやって来たその犬は「ゴン」と名付けられた。友達の家によく遊びに行かせてもらっていた私は何かイヤなことがあったりするとよくその犬に癒されたものだ。やんちゃだけど心の優しい犬で盲導犬としても活躍する犬種という話も納得できた。

私が目の当たりにして感動したゴンの逸話をここでご紹介したいと思う。
友達とその夜、何人かでスキーに行く予定だった私は、仕事のあと準備を整えて友達の家に集まった。行き先は新潟で、途中知り合いの家にハスキー犬の子犬を届けることになっており、ブリーダーさんから預かったというそのハスキー犬がそこにいた。やけに元気がない。ハスキー犬は仲間意識の特に強い犬で、子犬でも仲間から離れるということを感じてナーバスになってしまうことも多いらしい。それにしても本当に元気がない。だって柱に寄りかかっているのだ。自力で立とうとしない。大丈夫かぁ?(~_~;
とりあえず、犬のトイレのこともあるしスキーに行く前に散歩に行こうとその日はゴンの他にそのハスキー犬の子犬も連れて出かけた。尻込みするそのハスキー犬をなんとか連れて歩いたのだけど、急にテコでも動かなくなった。その場所がなんと道路の真ん中。あまり車の通りは多くないのだけど、焦った。このままでは車にひかれる。オロオロしているうちに向こうから車がかなりの速度で走ってきた。ホントにやばい!!!そう思ったとき、急にゴンがハスキー犬の横にすっと寄り添った。次の瞬間、あんなに頑なだったハスキー犬が動いた。道の端までゴンはハスキー犬に寄り添い、そのあとは何事もなかったかのように散歩が続行された。
以来、私はそれまで以上にゴンの大ファンになったのだった。

今はもう年をとり、さすがに昔ほど活発ではないが、無邪気さは相変わらず。住む場所も離れてしまい、なかなか会えないのだけど時折懐かしく思い出す。
友達夫婦とゴンのおかげで少しは犬のことも理解できるようになった。
人知れず順位をつけていたりいっちょまえにすねてみたり。その表情の豊かなところが犬は魅力的だ。
私にいろいろと教えてくれたゴンくん、長生きしてね。



F総裁(2003年10月18日up)

 最近よく日本道路公団の某F総裁がテレビに出てくる。彼は私の知っている人によく似ている。イヤでもその人を思い出す。影でみんなその人のことを『鼻でかジジイ』と呼んでいた(笑)
 当時、ある会社に派遣社員として勤務していた私。そこに新しい部署が出来て徐々に仕事を任されるようになり、とうとうその部署が独立した。新しいリーダーがやって来た。それがF総裁とよく似た人だった。威張り散らすくせに小心者で、新しもの好きのくせにポイントがどこかずれていて仕事に生かされず、ホントに仕事の出来ないヤツだった。彼のやり方が納得行かず、よく衝突した。そんな私が目障りだったのだろう。とうとう契約を切られる羽目になった。元いた部署のリーダーがそんな私を別の部署で働けるように取り計らってくれ、正式に会社から打診が来た。ありがたかったけど新しいトラブルが起きることも十分予想されたし、もううんざりしていた私はそのお話を断り、別の会社に移った。あとで風の便りにその『鼻でかジジイ』はあまり人と関わりを持たない部署に飛ばされたことを知った。やっぱりね、、と心の中で思ったものだった。
 そんなイヤな思い出もすっかり忘れていたのに、F総裁のおかげで思い出してしまう。別にF総裁に直接なんの恨みがあるわけでもないのだけど、あの顔を見るとムシズが走ってしまう。気のせいか性格も異常に似通っている気がして仕方ない。もしかして血縁者?(笑)
I大臣。早くなんとかしてくださいませ(・_・)(._.)


連れ去り事件(2003年10月10日up)

 
最近毎日のように連れ去り事件が報道されている。被害者は非力な若い女性や子ども。以前は珍しかった事件がいつどこで起きてもおかしくないご時世だ。どこの家庭も不安でいっぱいだと思う。
表面化している事件でさえ毎日報道されているのだ。行方不明や泣き寝入りの事件など合わせたらと思うとぞっとする。
最近は小学生でも携帯を持たせたりGPSで居所がわかるようにしたり、防犯対策もいろいろ。子供の頃にしか味わうことの出来ないはずの気ままさは今の子ども達には味わうことが出来ないのだろうか。
悠夏や悠紀が小学生になって自分の足で学校まで通うようになったとき、きっと毎日子ども達が家に帰ってくるまで安心できないだろう。日頃から悠夏には、知っている人でも付いていかないことや無理に連れて行かれそうになったら何でもいいから大声を上げることなど折に触れて話している。
幼い頃から人を疑うことを教えなければならない余裕のないこのご時世が悲しい。



もしも娘に恋人ができたら(2003年10月6日up)

 気が早いと笑われそうだけど、時折考える。悠夏や悠紀に恋人が出来たときのことを。親としてどの程度まで容認するかは今のところ試行錯誤中。
ただひとつ、心に決めていることがある。それはむやみやたらに反対しないことである。

私の実家はとにかく男女交際に関しては学生のうちは何が何でも大反対だった。心配だったのだろうけど、それでも思春期になれば好きな人はできる。おつき合いしたこともある。もちろん両親には内緒。ヒステリックに反対されるのが目に見えていたし、争いごとはごめんだった。
一度、高校生の時におつき合いしている人の存在がばれた。押し問答の末、家に連れて来いという両親にしぶしぶ彼を引き合わせた。なぜか将来は何になるつもりかとか、どういうつもりで私とつき合っているのかとか、なんか面接みたいだった(笑) そして彼は何を勘違いしたのか結婚のお許しが出たと思ったらしい。学校に行ったらその話が広がっていて、一気にしらけた私は彼に別れを告げた。今考えればそんなに彼のことを好きではなかったのかもしれない。
家に連れて行ったことによって別れようと思えたのかもしれない。でも別の考え方をすれば、あんなにヒステリックに両親がおつき合いすることに関して反対しなければ、もっと早くに彼とは別れていた気がするのだ。両親に反対されることにより、かえって意固地になっていた。結果、彼とのおつき合いが長引き、学校では彼と結婚するなどというデマが流される羽目になってしまった。
これはほんの一例で、エピソードはいろいろ。話し始めたらキリがないのでここで終わります(笑)

男女交際に関してしきりに反対するのは得策ではない。私自身、いろいろな体験を経て自信を持って言えることである。ではどうするべきなのか。理想は日常の会話やコミュニケーションを通して心の在り様を示して行ければいいなぁ、、と考えてみたりする。改めて論議しなくてもそこから学んで欲しい。
悠夏や悠紀がどんな恋人を連れてくるか今からなんだか楽しみだったりする。
そしてうぉーたーまんの反応も楽しみ(* ̄m ̄)プッ


次女の悠紀を出産したお話

出産前日
[4月17日]

 この日は悠紀の出産予定日。前駆陣痛はかなり前からあるものの、なかなか出産には至らず。
義母が早めに手伝いに来てくれているのだけど、なかなか生まれない。長女である悠夏の精神状態も不安定な日々が続く。子宮口の開きは1pの状態をキープ(-.-;
私自身かなりのストレスを感じるようになり、病院の先生に相談した結果、予定日に入院し、その翌日に誘発にて出産することを決意する。

 入院当日。これでやっと肩の荷が下ろせるという開放感からか、緊張感よりもちょっと遊びに行くようなわくわく気分(笑) 誘発で生むことにあまり不安はなかったが、できれば自然に生んであげたい、、という思いもどこかに残っていた。
陣痛の痛みが不規則だけど強くなってきていて、もしかしたら誘発せずに生むことができるかも・・というかすかな期待感と共に予定どおり14:00入院。
入院当日はたまたま満室だったため、とりあえず一般病棟との混合部屋へ。その際、出産後の部屋の希望を聞かれ、ダメもとで個室を希望してみた。満室とのことなので望み薄だとは思っていた。入院費も高くなるので、本音は個室が落ち着いていいと思ったのだけど気持ち的にはどちらでもいいや、、という気分だった。結局希望がすんなりと通ってしまい、めでたく個室へσ(^◇^;)
16:00子宮口の入り口を柔らかくするための処置が行われた。これで翌朝の陣痛促進剤の点滴を行うことなく陣痛に弾みがついて生まれることも多々あるらしい。実際、陣痛の波が大きくなってきた。
21:00いよいよ本格的な陣痛が来るようになったので、陣痛室へ。
そこで初めて当直の先生と対面した。というのは、その曜日だけいつもとは違う先生が大学病院から詰めているらしいのだ。これがなかなか素敵な女医さんだった。テキパキきりっとしていて、惚れてしまいそうなほど(笑) この時点でも子宮口の開きは1pと変わらず(T^T) 胎児心拍モニターを装着し、様子を見ることになった。

出産当日[4月18日

 陣痛室に様子を見に来てくれた助産婦さんが「飲み物は何も無いの?」と聞いてきた。そういえばのどがやたら渇く。経産婦にもかかわらず、飲み物さえ用意してこなかったマヌケな自分にここで初めて気づいた(-.-; 氷水をコップに入れてストローさして持ってきてくれた。ありがたかった。

 1:30陣痛が遠のく。この時点で子宮口の開きは5p。「うーーん、50%か」とつぶやいた女医さん。ここで浣腸をすることになった。陣痛再開の可能性に懸けたらしい。そして見事に陣痛復活(^^)v
ただ、浣腸の処置をした看護婦さんが不慣れな様子なのが気になった。トイレに立ったあと、再度モニターを装着してもらうときにかなり手間取っていた。やっと装着が完了してほっとしたのもつかの間、痛みは確実に押し寄せてきているはずなのにモニターに表示されない。
2:30頃その看護婦さんがまたやって来た。「胎児心拍モニターをはずしましょう」と言って来た。その人の判断に委ねることは悪いけどとても不安だった。痛いと訴えているのに「とりあえずはずしましょう」と押し切られてしまった。でも痛みはまたすぐに押し寄せてくる。しかも波がどんどん大きくなってくる。不安で耐えきれずにモニターをはずされて10分経たないうちにナースコールで別の看護婦さんに来てもらった。再度装着してもらうと今度は確実に痛みのたびに波が大きく表示される。やっぱりずれていたのね(-。-) ボソッ

3:30女医さんの内診を再び受ける。その時点で子宮口の開き6p。6:00に診察予定と告げられる。痛みをこらえる私に看護婦さんが「ご家族の方をお呼びしましょうか」と声をかけてくれた。家にいる面々を一瞬思い浮かべた。うぉーたーまんに悠夏に義母。誰が来ても気を遣うばかりで頼りになりそうにない(爆) 「いいえ、大丈夫です」と言う私に「強いですねぇ」と返ってきた。そうじゃないんだけど(笑)

5:00大量出血。ずーーっと痛みに耐えているうちに意識が朦朧としてきた。それでももう少し我慢できる、、と我慢しすぎたσ(^◇^;) ナースコールに「どうしました?」と平和な声で答える看護婦さんを「なんか出てます」と呼んだ。あまりの痛みに実際出血しているかどうかさえわからなかったのだ。とにかくただならぬ異変を感じた。なのに周囲の慌ただしさを妙に冷静に観察する自分もいた(笑) 女医さんは思いきり寝ぼけた顔をしていた。そりゃそーよね、仮眠していたはずだもん(-。-) ボソッ 私の大量出血を見て「うわぁ、こりゃすごい」と言った声も聞き逃さなかった。先生がすごいって言うんだからよほどなんだなぁ、、なんてのんきに思ったりして(笑) 子宮口は全開だった。悠夏のときもそうだった。子宮口はなかなか開かず、ある時を境に一気に開いた。突然だったので、そのときも周囲は慌てていた。

すぐさま分娩室に移動した。周囲がばたばたしている様子がこれまた冷静に見ていておもしろくさえあったりして(笑) この病院では出産中に自分の好きなBGMをかけてもらえるのだけど、どうやらその余裕は無さそう。うぉーたーまんに看護婦さんが電話をしてくれたらしいのだけどなかなか出ず、3度目でやっと応答したらしい。ま、そんなもんでしょう、、と思った(笑) 女医さん1人にサポートが3人。周囲の言うとおりいきんだり深呼吸したり。渾身の力を振り絞る。

5:34出産。身長48.1p、体重2,885gの女の子。元気な産声をあげた。その後、サポートの方が1人だけ残った。女医さんが産後の処置を黙々としている。私は未だ分娩台に乗ったまま。出産にかなりの労力を要したので脱力感はかなりあるが、頭は冷静。この体勢ってなんかすごいかもσ(^◇^;) へその緒がまだ繋がっているので、なんかちょっと引っ張られる感じもしたりして。そのとき、ふと臍帯血のことが頭をよぎった。そこで臍帯血についていくつか質問してみた(笑) 私の疑問に丁寧に答えながら「冷静な妊婦さんですねぇ」と苦笑された。この状況でそんな質問をした妊婦さんは私が初めてらしい(爆) 私なりに出産中、少しくらいはパニックになったつもりだったのだけど極めて大人しい出産だったらしい。ワタシってふだんから大人しいからなぁ(。_・☆\ ベキバキ
キレイにしてもらってから初乳を含ませるためにほんの少し抱かせてもらう。この瞬間は母の特権とも言うべきものだと思う。久しぶりに抱いた生まれたての赤ちゃん。そっと抱く。満足。
出産してから2時間は安静にベッドに横たわっていた。その横にキレイにしてもらった悠紀が。生んだばかりの悠紀の顔を思う存分見ることが出来てなんだか幸せ気分(*^^*)

6:30頃、看護婦さんが「ご主人、まだ見えませんねぇ」と言って来た。言われてみればまだ姿を見ていない。私も忘れてたσ(^◇^;) 少し経つと戻ってきて「電話したらお義母さんらしき方が出られて、今出ますとおっしゃってました。」と伝えてきた。思わず「ったく人が苦しんでいるときに何してんのかしら。そば屋の出前じゃないんだから」と突っ込むと周囲で爆笑(~_~; あとで何していたのか聞いたら、一報受けた後、また寝てしまったらしい。さすがに義母に起こされてそのあとゆっくり朝ご飯を食べてたんですって(--#)
やっと来たうぉーたーまん、やたらと汗をかいている。「なんかこの部屋、すごく暑い。」という言葉に、ふと悠紀が寝かせられているベッドにヒーターみたいな装置が付いていることに気づいた。生まれたての新生児は体温調節ができないのでしばらくこのような特殊なベッドに寝かせるのだそうだ。元々早朝仕事で出かける予定だったうぉーたーまんはあまりゆっくりすることもなく、それでもいろいろな角度から写真を撮ってそのまま仕事に出かけていった。

7:30過ぎ、とりあえず元いた混合部屋に移動。朝食後、ベッドごと個室へ移された。個室はいいわぁ♪ なんといっても落ち着く。とにかくゆっくり眠りたかったので個室はありがたかった。
お昼を食べて助産婦さんが様子を見に来てくれた。ついでに部屋に付いているトイレに行き、悪露の報告。歩行開始は産後8時間が原則らしいのだけど、1時間ほど早かった。ちょっとふらふら。だけどついでに授乳室も見学させてもらった。翌日からここで少しずつ授乳開始予定。基本的には母子同室制。だけどそれは母親の意志に任せられる。わがまま気ままな私にはぴったりの病院だ(笑)

夕食後、長女の悠夏が義母とうぉーたーまんと共に目をキラキラさせてやって来た。初めて見る妹の悠紀をどんな思いで見たのだろう。新生児室を通過して私のいる個室にやって来たので、悠紀を見たときの悠夏の表情は想像するしかないのだけど。私に会えてうれしかったのか、妹が生まれてうれしかったのか。とにかくうれしそうだった。
悠夏が帰るときエレベーターまで見送りに行った。それが良くなかった。それまで平気な顔をしていた悠夏の表情がエレベーターのドアが閉まる瞬間ゆがんだ。あとで聞いた話によると、そのあとかなり大泣きしたらしい。うぉーたーまんは一旦家まで義母と悠夏を送り届けたあとまた仕事に戻り、悠夏は部屋の片隅でずっと泣いていたらしい。義母はおろおろ。かわいそうなことをした。悠夏の新たな試練が始まる。

入院生活[4月18日〜23日]

 
快適な入院生活が始まった。食事はおいしい。おやつは手作りのものが日替わりで出てくるので毎回何が来るのか楽しみ。寝たいときに眠ることができる。シャワーは出産の翌日から好きなときに使うことができた。個室なので携帯メールも使い放題(笑) 同室の人が居るわけでもないので気を遣う必要もない。自分のことだけを考えられる一週間だった。
そして、なんといっても自分の体調に合わせて赤ちゃんを預けたり部屋に連れてきたりできるのがとても良かった。家事をせずに赤ちゃんだけを見ていられるのが幸せだった。

 看護婦さんや保健婦さんによって言うことが違うことがあり、戸惑ったことがひとつ。授乳時間のことである。気持ちよさそうにすやすや寝ている赤ちゃんを起こしてまできっちり3時間ごとに授乳をしなくては、、と言う人と、あまり長時間あいてしまうのは好ましくないかもしれないが、ある程度ならお腹を空かせて泣いたときにあげる方が、赤ちゃんにも刺激になっていいのでは、、と言う人に別れていたのである。
私は迷うことなく後者の方の意見に賛成。悠紀がすやすや寝ているのに授乳室にきっちり3時間おきに呼びつけられるのは正直参った。そういうこともあり、夜間は部屋に悠紀を連れ帰ることも後半は多くなった。今考えればそれも看護婦さんの作戦か?σ(^◇^;)
でもそのせいだろうか。早いうちから悠紀は朝晩の生活サイクルが身に付いたように思う。新生児室にいれば、他の赤ちゃんの刺激もあって夜間も起こされることも多いだろう。個室ではその心配もなかった。寒かったり何か不快なことがない限り、夜は比較的よく寝てくれた。授乳に起きたのも夜中は多くて2回。1回だけという日もあったくらいだ。
 一度に飲む量は悠紀は多い方だった。そのわりに日中はお腹を空かせる間隔が短くてミルクが欲しくて泣くときの勢いは周囲も笑っちゃうほどだった。私は悠紀を『腹っぺらし』と呼んだ。あとで退院してからも看護婦さんは『腹っぺらし』のフレーズで悠紀を思い出すほどだった(爆)
 おむつ交換は授乳のたびに行っていたが、退院前に栄養指導やら沐浴の実施指導があり、授乳中には母乳についての相談もいろいろとその場にいる看護婦さんやら保健婦さんが熱心に受けてくれた。ナースステーションでは時折活発なディスカッションが展開されており、悠夏を生んだ病院では無かったことだらけだったので、ひとつひとつが新鮮だった。この話題には後ほど改めて触れようと思う。

 悠夏は夕方、うぉーたーまんに連れられて義母と一緒に毎日来てくれた。足音ですぐにわかった。私の部屋は奥まった場所にあったので、こちらに向かう子どもの足音は悠夏くらいしかいなかったのだ(笑) 機嫌良く来て、帰るときは大泣き。このパターンが定着した。病院内でも有名になった(-.-;
泣くのは私と離れるときのみで、病院を出るとけろっとしていたらしいのだけど、これまで私と離れて寝たことなどない悠夏のことは唯一私の心配の種だった。
幼稚園でも表面上は悠夏に変わったところは無かったらしいが、みんなで遊ぶおもちゃを持ち帰ってしまったり、悠夏らしからぬ言動が見られた。
それでも退院する日が近づいてくると少しずつ泣かなくなってきた。もう少しで私が帰ってくるということを理解してくれたらしい。来るたびにカレンダーを見ながら退院までもう少しだね、、と話した。悠紀のことはこわごわ時折のぞき込んだ。複雑な表情を浮かべながらもうれしそうだった。

 退院当日、あと1ヶ月ほどは滞在したいと後ろ髪を引かれる思いで退院した(笑) 入院する日は車窓から桜が咲き乱れているのが見えたのに、退院した日は新緑が色濃く、景色が一変していた。
ちょうど悠夏が幼稚園バスから降りる時間と重なり、私達を見つけた悠夏はとてもうれしそうに走り寄ってきた。そうして私は現実に引き戻された(T^T)(T^T)(T^T)
あ、、でももちろん、今も幸せです、はいσ(^◇^;)
 
【完】